松江城と李白酒造2022年5月24日

<第1章> 松江城と堀尾吉晴・忠氏父子の悲劇

その1 浜松城の堀尾吉晴

堀尾吉晴は尾張の国丹波郡(現在の愛知県丹波郡大口町あたり)の土豪であった堀尾泰晴の長男として生まれた。父が仕えていたのは岩倉織田氏で名門であったが、傍流である織田信長に滅ぼされ、一時は父と共に浪人となった。その後尾張を統一した信長に仕えることになり、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に付属され、戦功をあげて秀吉の信任を厚くした。

近江国の佐和山城4万石(彦根にあり後に石田三成が城主となった城で関が原にも近い重要な地点にあった)の城主を勤めた後、天正11年(1583年)の小田原北条攻めの武功で、浜松城12万石の城主になった。掛川城の山内一豊などとともに家康の旧領に配置された豊臣系の大名たちで東海地方の防備を固め、関東にいる徳川家康への抑えとしようと秀吉が考えた策だった。

*浜松城は徳川家康が29歳の時に築城し、45歳まで17年間いた城・・・関東に行かされた家康としても取り戻したい城のNo.1だったと思わるので、その城に入るのは相当の覚悟がいったか!もしれない。

しかし、吉晴は家康とも通じており、特に秀吉死後は中老(正式な役職ではなかったと言われているが、5大老と5奉行などの間で意見が合わない時の調整役をしていた)として家康の意向を上手にみなに伝えてまとめる役をしていた。

その2 関ヶ原の戦いで24万石の大名へ

吉晴は息子の堀尾忠氏とともに11年間浜松城に在城していたが、1600年9月15日(旧暦なので、西暦なら10月21日)に行われた関ヶ原の戦いで家康の東軍側につき、忠氏は良く戦った。その結果、忠氏は出雲と隠岐の24万石の大名へと大出世した。24万石とは現在なら144億円相当の税収(年報350万円の武士なら4000人以上?を養える額)にあたると思われる額である。

1600年の11月に浜松から忠晴・忠氏父子が月山富田城に入城したが、領国の東端の場所でもあり、月山にある狭い山城であったことなどから領地支配や家臣団の配置が出来にくい城であった。

月山富田城の地形と現在の状態(近くに庭園でも有名な足立美術館がある)
*月山富田城では尼子対毛利の激しい闘いがおこなわれた。第2次月山富田城の敗戦(1566年)の後、山中幸盛(鹿之助)は尼子家の再興を誓い、三日月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った。(写真)

そこで、月山富田城以外でほうぼう城の候補地を探して、父子でもめている最中、1604年に忠晴が27歳で嫡子堀尾忠晴を残して急死してしまった。

この死についてのお話に興味ある方は最後の<ミステリー1>をご覧ください。

やがて忠氏は急死した息子忠氏が望んでいた場所=極楽山(後に亀田山)に新城を築くことを決めたが、それまでに4年の歳月が流れていた。そしてそれからさらに4年かけて築城され、ようやく1611年に松江城が完成した。

築城にまつわる悲しい言い伝えや、何故今でも松江城下で盆踊りが行われないのかなどの興味ある方は<ミステリー2><ミステリー3>をご覧ください。

*宍道湖と大橋川に近接した交通の要衝を押さえる位置である極楽寺山(後に亀田山)に築城された松江城(写真の左側の細長い丸い緑の部分)

また、松江という名前は慶長16年に城郭が完成した際に、中国の風光明媚な湖水の町「松江(ずんごう)」の名前から命名したと伝えられている。

その3 松江城の魅力

松江城は輪郭式の平山城であり、戦闘的な黒塗りの天守閣を中心として本丸、二の丸、三の丸、北の丸などが配置され、さらにその周りに内堀と外堀が設けられた。

内堀と外濠の間には侍屋敷が配置されて守りを固めており、今でもその町名、殿町、母衣町などに名残が残っている。また雑賀町は堀尾氏が松江に連れてきた紀州の雑賀鉄砲衆が住んだことがその始まりである。

この松江城は黒塗りの武骨なたたずまいで、破風などの装飾も必要最小限で戦闘をするために作られた城である。天守閣の地階には深さ約24メートルの井戸が掘られており、内壁には味噌などが塗り込まれた壁があり籠城する態勢が整備されていた。しかし、備えあれば憂いなしか、実際には戦禍に会うことはなく現存出来たわけである。

*国宝松江城 創建された当時のまま現存する天守閣は全国でも12城しかない。その中でも国宝に指定されている城はたった5つしかない。(写真)

松江城の天守には入り口に付櫓という出っ張った部分がつくられている。これは天守入り口への敵の侵入を防ぐ役目があり、戦闘的な松江城を代表するものの一つである。

<第2章> 李白酒造のものがたり

日本最古の歴史書「古事記」の出雲神話に素盞鳴尊(スサノオノミコト)が「八塩折(ヤシオリ)ノ酒」という何度も濾した濃厚なお酒をヤマタノオロチに呑ませて退治した話が登場する。また、「出雲国風土記」でも佐香の河内で神々が集って御厨を建てて、酒を造って180日間にわたり酒宴を開いたとあり、酒造りの神「久斯之神(くすのかみ)」を祀る古社である佐香神社(松尾神社)に日本中の杜氏が参拝する。

そして旧暦の十月、みなさんの地域では神無月だが出雲では神在月となる。全国から集まった八百万の神々が最後の酒宴〝直会(なおらい)を行って旅立ちをするとされる万九千神社(まんくせんじんじゃ)も出雲にある。ここが直会発祥の地と言われている。この直会とは、「打ち上げ」や「宴会」というだけでなく、御神酒をいただきながら日常生活に戻る心の準備をする時間と空間を共有し、神と神、神と人が直り会うものだ。

そのような日本酒造りの歴史のある出雲地方には南部杜氏や越後杜氏、丹波杜氏などとともに出雲杜氏がいる。出雲杜氏が造る昔ながらの酒は酸度が高く、アミノ酸由来のうま味や甘味、渋み、苦味などがバランスよく混ざり合ったどっしりとした味わいが特徴の一つで、口に含むと複雑な味が広がる。濃い味付けの料理にも負けない力強さがあり、さしみ醤油などに使われる濃厚な再仕込み醤油ともよく合う。なお、近年は造りの種類も多様化してきて、出雲杜氏の酒質を継承しつつ、口当たりのよいスッキリと端麗なタイプのお酒も造られている。

この出雲杜氏の伝統を大事に守っている蔵の一つに李白酒造がある。令和3年の「広島国税局清酒鑑評会」優等賞受賞者の中にこの李白酒造があり、受賞したのは「純米酒」部門で「李白純米大吟醸」だ。

*李白酒造の蔵の一部と工場の一部(写真)

しかし、この李白酒造は創業された明治15年からずっと李白酒造であった訳ではない。昭和初期、酒と詩を愛し、この蔵の酒の美味しさに魅了された松江市出身の2度内閣総理大臣を歴任した若槻礼次郎氏が銘柄に「李白」と命名。当初は他の銘柄もあったが、後に「李白」に一本化。「李白」の銘柄は後に全国に広まった。当時社名が「田中酒造」であったことから、「李白」の銘柄と「田中酒造」の社名が一致し辛く、平成5年四代目が「田中酒造」を「李白酒造」と社名変更。しかし、代々の稼業の名前を変えることには大変悩んだという。

李白は中国の盛唐時代に活躍し、「詩仙」と呼ばれるほど、あまた中国詩人の中に一番星と輝いた代表的な詩人で、酒を称えた詩をたくさんつくった李白は、酒を愛する人の気持ちを「将進酒」などの詩で代弁してくれている。酒好きなら是非読んで欲しい。

そして、この李白酒造の工場3階の窓からは松江城の天守閣が望めるのだ!

*李白酒造の直売場で購入して堪能したお酒の一部(写真)

<おまけ>出雲地方に旅したら食べるべきものNo.1とは?

*それは出雲地方で食べられる出雲そば・・・写真は波積屋の割子そば

割子とはそばなどを入れる器のことで何段でも重ねられて、昔は屋外で食事を楽しむ際などに利用されていたようだが、この割子を使う地域は日本でも2か所程度のみと言われている。

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<ミステリー1>

山城である月山富田城から他の場所に本拠地を移すことは決まった。堀尾忠氏は父堀尾吉晴に松江の極楽寺山(後に亀田山)にするよう提案したが、反対され各地を視察してまわっていた。

松江の近くにある霊験あらたかな「神魂(かもす)神社」周辺を見回った際に、神社の禁足地に足を踏み入れてしまった。戻って来た忠氏は顔面蒼白であったので一行はすぐさま月山富田城に戻ったが、忠氏は若くして亡くなってしまった。神の祟りとも言われているが、禁足地でマムシに噛まれたとの説もある。

<ミステリー2>

松江城を築城する場所(極楽寺山、別名亀田山)には多くの神社などがあったため適地を選んで遷座していったが、本丸予定地にあった榎のご神木だけは移すこともできずやむなく伐採した。その後本丸の東側石垣を何度積んでも崩れてしまうことがあり、芦髙神社の神官である松岡兵庫頭(ひょうごのかみ)を呼んで占ってもらったところ石垣を造成する場所の榎の神木があった場所には髑髏(どくろ)があるはずだと占ったので、掘ってみたら槍に貫かれた髑髏が出てきた。それを2夜3日にわたり供養したところ、その後は石垣が崩れなくなった。

この時に掘った穴を掘り下げたところ清らかな水が噴き出してきたので井戸として利用した。その名は「ギリギリ井戸(ぎりぎりとは頭のつむじのこと)」という名で、現在も城内に名札が立っている。

そして、城郭が完成後、神官松岡兵庫頭はそのまま松江城全体の神職として指名され、 毎月の祈祷の場所として天守閣の鬼門の方角に天守閣に寄り添うように二階建ての「祈祷櫓」が建てられた。全国的にみても城内に祈祷櫓がある城は珍しいのでよほど、いろいろな出来事が起きたことが想像に難くない。

<ミステリー3>

築城に際し何度も石垣が崩れてしまうので話合いの結果、「人柱」をたてることとなり、城下で盆踊りの最中に最も美しい若い女性を無理やり捉え、人柱の役をさせた。その後、石垣は無事に完成したが、そのたたりか城下で盆踊りがおこなわれる度に天守閣が大きく揺れるようになり、城下では盆踊りが禁止され、今でもその風習は続いている。

松江城の築城主堀尾忠氏は築城開始前に突然亡くなり、父の堀尾吉晴も城の完成を見る前に亡くなった。忠氏の子供の堀尾忠晴には子供が出来ず33歳で亡くなった。さらに堀尾家の後を継いで城主となった京極忠高も赴任3年後に跡継ぎが無いまま亡くなってしまうというまさにたたられた城であった。

次に城主となったのは松平直正であったが、その彼が初めて天守閣の最上階の天狗の間に登った時、死に装束の女の幽霊が現れた。そして直政に向かって「この城はわらわのもの!」と言ったという。そこで直政は即座に「ならば、このしろをくれてやろう!」と返答したので、幽霊は姿を消した。

次の日に直政は三宝に乗せた魚のコノシロ(寿司ネタでおなじみのこはだ)を用意させ、天狗の間に置かせた。翌朝コノシロは三宝ごとなくなっていた。場内をくまなく捜した結果、三宝は祈祷櫓で見つかったがコノシロは見つからず、それ以来幽霊も現れなくなったという。その後松平家は10代にわたり松江城主を勤めることが出来た。