大喜多城と岩瀬酒造(岩の井)2022年2月14日

<第1章> 大喜多城と本多忠勝

その1 忠勝の誕生

本多平八郎家とは四代に亘る松平家(後の徳川家)の最古参の譜代家臣の家柄で本多家宗家にあたる。本多家は江戸時代初期には六家あり、大名十三家、旗本四十五家を数え、徳川幕府を支える一大勢力であった。

本多忠勝は本多忠高の子として1548年(天文17年)に生まれたが、わずか2歳の時織田信長の兄弟織田信広との「安祥城の戦い」で父を亡くす。その後8歳になると今川義元への人質として駿府にいた松平元康(後の徳川家康)の側近として仕え始めた。

 

その2 徳川家康の生涯での3大危機

天下人になった徳川家康だがその人生で3つの大きな危機を経験している。その3大危機にいずれも本多忠勝が活躍して難を逃れているので紹介しよう。

①三河の一向一揆と忠勝

永禄六年(1563年)松平家の本拠である西三河において寺の不入特権をめぐって「三河一向一揆」が勃発した。松平の多くの家臣が一向宗の門徒であったため家臣の大半が一揆側についてしまい、家康はピンチとなった。その時15歳の忠勝は、“忠義ファースト”で自身が一向宗の門徒でありながらもひたすら家康に忠義を尽くし一揆の鎮圧に努め、ついに鎮圧に成功した。その後忠勝は家康と同じ浄土宗に改宗までして家康への忠義ファーストをつらぬいた。

19歳になった忠勝は旗本先手役に抜擢され、直臣五十余人を付けられた。それに応えて23歳の時「姉川の戦い」で織田徳川連合軍がピンチになった際には朝倉軍1万にただ一騎で「蜻蛉切(とんぼぎり)」という名槍を振り回して切り込んだ。それを見た家康は「平八を討たすな!」と叫び、二千余りの家康軍がそれに続き勝利できた。

 

②三方ヶ原の戦いと忠勝

元亀三年(1572年)天下の猛将武田信玄が2万7千の軍勢を率いて遠江(静岡県西部地域)に侵攻してきたが織田信長の援軍が来ず、徳川家康はわずか8千の兵で迎え撃たなければならなかった。最初の戦いがおこなわれた「一言坂」で苦戦した家康は撤退を決意した。その殿軍(しんがり)は勝ちの勢いにのった敵から追撃され死を覚悟した者でなければできないものだが、それを忠勝(およそ24歳の頃)がかって出た。奮戦むなしく敵将小杉左近軍に包囲され、忠勝は絶体絶命の危機に陥った。その時、小松左近が突然攻撃を止め、逃げ道を開けた。忠勝の死を覚悟した奮戦ぶりに、死なせるには惜しい人物と考えたか、死に物狂いの忠勝軍と徹底的に戦うことによる味方の被害を考えたかはわからないが、後日小杉左近が狂歌・落書で「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」と書いたため全国にその名を知られるようになったという。(因みに「唐のかしら」とは舶来品であるヤクという動物の尾を冑の飾りとしたもので、貴重品であり家康や三河武士が好んで着用していた。)

しかし、この後、籠城している浜松城を素通りされた家康は、若気のいたりでわざと素通りした武田信玄を追って三方ヶ原で戦い、まんまと武田信玄の術にはまり生涯で最大の負け戦をしてしまう。その反省からその後の戦いでは慎重な戦いを行い、天下人となっていくのである・・・

 

③本能寺の変直後の伊賀越えと忠勝

天正十年(1582年)六月二日、大阪堺の津から信長に会いに京に向かう途中、先発していた忠勝(およそ34歳の頃)が本能寺の変の知らせを持って戻って来た。家康や重臣たちは「すぐに京に駆け上がり、一戦を遂げて信長公に報いる。叶わぬ場合は松平家ゆかりの知恩院に駆け込み自刃するまで」と言い始めたが、忠勝は冷静に状況を判断し、「この小勢をもって明智光秀の大軍にむかうことは死することが明らかであり、ここはひとまず本国三河に帰り、兵を整えた上で光秀を討って信長公に報いるべきである」と強く諫めたので、家康も伊賀越えによる帰国を決断出来た。後に家康はこの勇気ある冷静な判断と進言を大いにほめたという。

 

④ 小牧、長久手の戦いと天下無双の勇士

天正十二年(1584年)三月、小牧、長久手の戦いの際、密かに長久手方面に向かった秀吉軍の別働隊を襲撃するため家康は小牧城にこもっていたほぼ全軍を率いてその後を追った。

その家康を追うために秀吉軍が二万余の大軍で出陣すると、小牧城に残っていた本多忠勝(およそ36歳の頃)はわずか五百人の兵で出撃してその大軍を挑発した。

秀吉軍の加藤清正、福島正則らは直ちに五百の忠勝軍を打ち取ろうとした、姉川の戦いでの忠勝の勇猛ぶりを聞いていた秀吉は「少数の軍勢でわが大軍に立ち向かうは死を覚悟のうえ、わが軍を暫時くい止めて家康の本陣から遠ざけるためであろう。あっぱれな忠勝、家康を滅ぼした際にはわが家人とすべきなり」と言って忠勝を打ち取ることを禁じたという。家康との講和が成立した後、秀吉は「平八郎忠勝こそ天下無双の勇士なり」と大いに称えたとのことである。

*小牧山に残る小牧城址  織田信長が清州城から引っ越して作った最初の城(写真)

 

その3 大多喜城主への道

①小田原北条征伐と関東制圧

天正十八年(1590年)小田原の北条氏を攻撃した秀吉軍に加わっていた忠勝(およそ42歳の頃)は、鎌倉甘縄城の北条氏勝を説得し味方にするや否や、あっという間に武蔵、上総、下総、上野および下野五か国の四十八の城をことごとく攻め落としてしまった。この猛烈な攻撃力の前に小田原の北条氏政・氏直父子も開城を決断せざるを得なかった。この手柄に対して秀吉は特別に忠勝を呼び出し、武士なら誰もがあこがれる源義経の忠臣であった「佐藤忠信」の由緒正しき兜を与えた。

その後秀吉から関東一円を拝領した家康は、忠勝を上総大多喜十万石、井伊直正に上野箕輪十二万石、榊原康政に上野館林十万石、大久保忠世に相模小田原四万五千石、鳥居元忠に下総矢作四万石を与え、それぞれ関東の要所に抑えとして配置した。また秀吉は忠勝の房総の諸城攻めの功績をたたえいすみ市にある上総萬喜城を与えた。その後忠勝は安房の里見氏に対する備えとして大多喜城を築城した。

*昭和50年に古い絵図をもとに建てられた模擬天守と当時のまま残る薬医門(写真)

 

②里見氏への抑え、大多喜城の整備

標高約73メートルの位置に建てられた平山城の大多喜城だが、城は急峻な夷隅山系の山に囲まれた天然の防御線の中にあり、本丸、二の丸、三の丸などから構成され周囲は空堀や土塁で固めていた。南側には夷隅川が天然の堀の役目を果たし、しかも高さ約30メートルの断崖があって攻める意欲を無くさせる。しかも空堀や土塁にはこの地域特有の滑りやすい水成岩を利用していた。城域と城下との間には約800メートルにわたり水濠も掘削され、第一の門ではつり橋があってこれを吊り上げると通行が出来なくなった。城内の三の丸には野菜畑や田んぼも配置され、半年間は籠城できる体制が整っていた。また、城内には井戸が25もあり、その中でも二の丸にあった井戸は周囲約17メートル、深さ約20メートルで底なし井戸と呼ばれ、城内井戸としては我が国最大の規模である。

*枯れたことがない日本最大の二の丸の井戸と二の丸から見た天守(写真)

 

その4 関ヶ原の戦い

慶長五年(1600年)石田三成の挙兵を受けて急遽「小山評定」を取り仕切った家康は、軍を二手に分けて西に向けて出陣させた。一方は長男秀忠を総大将として中山道を進ませ、もう一方には東海道を進ませたのだが、こちらは福島正則、池田輝政ら豊臣恩顧の武将が中心だったので、家康は忠勝(およそ52歳ごろ)と井伊直正を軍監として送り込み約7万4千人の進軍の指揮をさせることにした。途中井伊直政は病気にかかり従軍できなくなったので、400名ほどの少人数ではあったが忠勝ひとりが家康と連絡を取りながら関が原への行軍の指揮を執った。

忠勝らの適切な判断で関ヶ原の戦いに突入することができた徳川軍であったが、その中にあっても本多忠勝隊の活躍はすさまじいものがあり、挙げた西軍の武将の首級は90を超えたと言われている。

 

その5 伊勢桑名への転封と大喜多城主本多忠朝の誕生

忠勝は関ヶ原の戦いの功績により11年間過ごした大多喜城から伊勢桑名に栄転を命ぜられた。家康からは10万石から15万石へと5万石の加増を言われた忠勝であったが、加増を固辞したため困った家康は、忠勝の次男本多忠朝を5万石で2代目の大多喜城主としたのだった。

桑名は尾張や美濃国と接しており、また当時は東海道で唯一の船渡のある交通の要衝地であった。家康は忠勝に西国の勢力の監視役を期待しての転封であった。

*桑名にある本多忠勝像 と 築城に10年を要した桑名城の広い水堀(写真)

 

 

<第2章> 本多忠朝とサン・フランシスコ号 

その1 スペイン船「サン・フランシスコ号」の難破

慶長十年(1609年)フィリピン諸島長官のドン・ロドリゴが任務を終え、スペイン船「サン・フランシスコ号」に乗って本国メキシコに帰る途中で、暴風雨にあって船が破損し25日間も漂流してしまった。

9月4日(旧暦なので秋も深い)夜半現在の御宿町にある岸和田の岩田沖で座礁し、船員が必死に泳いで助けを求めに漁師の家へと駆け込んだ。見たこともない風貌の外国人だったが、村民は村をあげて救助にあたり乗員373名のうち岸和田村田尻海岸に泳ぎ着いた317名を助け上げ、体温が奪われて瀕死の状態であった者に対しては村の海女達が自らの体温で体を温め、命を救った。

この事件は庄屋を通じて大多喜城に伝えられた。重臣会議が開かれ全員打ち首または他国追放という結論であったが、2代目の城主本多忠朝がこれに従わず彼らを救済するよう命じ、一行を大多喜城まで招き、城内を案内した上でドン・ロドリゴ長官らには日本刀一振、牛一頭、鷄数羽及び日本酒を贈って歓迎した。

その後、忠朝の手配で江戸城の徳川秀忠に謁見をゆるされた一行はその後駿府の徳川家康にも謁見するという奇跡が起きた。

謁見した家康は彼らの帰国のための船と金銭の提供を申し出て、家臣のウィリアム・アダムス(三浦按針)に申し付けて120トンほどの帆船を数カ月かけて建造させ、日本人20人も同乗させてメキシコに向けて送り出し無事アカプルコ港に着いている。彼らの帰国は岸和田沖での座礁から実に9か月後のことであった。なお、これが初めて日本人か太平洋を横断した画期的な歴史として残っている。

スペイン国王は家康に対して西洋時計を送って感謝を表した。そして御宿とメキシコとの友好関係は現在もアカプルコ市やテカマチャルコ市との姉妹都市の形で連綿と続いている。

 

その2 「サン・フランシスコ号」の帆柱

岩瀬酒造は江戸時代享保8年(1723年)に創業され、約300年続いている由緒ある酒蔵だ。そもそも造り酒屋を経営するには相当の資金的余裕がなければならない。なぜなら日本酒を仕込んでからそれがお金になるまでに半年から1年もかかるからである。江戸時代から地域の経済に貢献してきた岩瀬酒造だから、村にとってとても大事な歴史的遺産である「サン・フランシスコ号」で使われていた帆柱が与えられたと思われる。現存する岩瀬酒造の母家の梁はその帆柱でつくられており、酒蔵見学に訪れた人たちが見学することができる。

*歴史のある母家や煙突と梁  帆柱なのでところどころに穴があいている(写真)

この岩瀬酒造の日本酒は昭和22年(1947年)の全国清酒鑑評会で主席に選ばれ、昭和61年(1986年)中曽根首相とレーガン大統領が出席した東京サミットで使用され、フランス大使館からは大統領のお土産用に注文が来たほど好評だった。さらに、以前JALの国際線ファーストクラスで使用もされていた。

その人気の秘密に触れておこう。御宿地区の地層は以前海だったところが隆起した場所で、貝殻地層である。したがってカルシウムとマグネシウムが比較的多く含まれる水であり日本でも1、2を争う硬水を使ってつくられている。切れ味が良い旨い酒ができる理由の一つは120~180mg/ℓ未満の硬水よりもさらに硬度が高い超硬水でつくられていること。しかも180mg/ℓ以上と定義される超硬水の中でも240mg/ℓを超えるこの超硬水なので切れ味抜群だ。

*岩瀬酒造の代表的なお酒のひとつ「岩の井」 (写真)

さらに歴史を誇る御宿町の岩村酒造にはもう一つの切り札がある。それが古酒だ。蔵の中で永い眠りについている日本酒は熟成され新酒とはまったく異なる姿を現す。ウィスキーのような琥珀色をしたその酒はまろやかで膨らみがある味にしあがっており、欧州などでも人気が高い。十年以上熟成された日本酒「熟成古酒」の中でも20年ブレンド古酒や30年秘蔵古酒などが販売されているが、「平・和の調べ」という古酒を紹介したい。6種類の熟成古酒をソムリエの田崎真也氏がブレンドした古酒であり、平成と昭和の調和という意味で「平・和の調べ」と命名されている。

*田崎真也氏がブレンドした古酒「平・和の調べ」 と 蔵で眠る古酒たち  (写真)

*岩瀬酒造に申し込めば酒蔵見学、試飲もできる(写真)

ホームページ:https://www.iwanoi.com/

 

*せっかく御宿まで来たなら“月の砂漠”の童謡が出来た海岸まで足を延ばし、月の砂漠記念像・記念館などを見ておくとよい。是非宿泊して外房の海の幸を岩の井などで楽しんでもらいたい。アワビや伊勢海老が有名でしかもリーズナブルな値段で食べることができる。筆者は酒蔵見学後、テレビでもおなじみのおんじゅく大野荘 http://www.oonoso.co.jp/ に宿泊して伊勢海老とそれに合う岩瀬酒造の“岩の井”とをとことん堪能することで、御宿の素晴らしい思い出が残ったことを報告して紹介を終えたい。