城と酒シリーズ vol.1 「岩村城と女城主」2021年5月30日

織田信長、武田信玄、明智光秀らが登場する

日本三大山城の岩村城を巡る

悲劇のドラマをお楽しみください・・・

城址と日本酒の研究家 佐藤典久

 

 

 

岐阜県恵那市の海抜721メートル(岩村町観光協会のガイドブックによると717メートル)の城山の山頂に本丸が築かれた、日本三大山城の一つ“岩村城”には悲劇のものがたりがあります。

 

岩村城は、1185年に源頼朝の重臣加藤影廉(かげかど)が美濃恵那郡遠山荘の地頭に任ぜられた際に築いたとも言われています。

 

時は移って1508年頃には遠山頼景(よりかげ)が岩村城を居城としていたそうです。

そのひ孫と言われる遠山景任(かげとう)は織田信長に臣従し、信長の叔母で“絶世の美女”と語り継がれるおつやの方(おふくの方)を妻に迎えていましたので、甲斐の武田信玄から攻められました。

1570年(元亀1年)には武田信玄の家臣秋山信友(のぶとも)が岩村城に攻め寄せました。
その際は織田方の明智光秀らの援護でこれを撃退することが出来ました。

ところが、遠山景任(かげとう)はその翌々年に病死してしまいます。
織田信長はまだ幼少であった五男の織田勝長を遠山氏の養子に送り出しましたので、勝長に代わり未亡人のおつやの方が女城主として采配を振るいました。

その翌年の1573年(天正1年)岩村城は再び武田軍の秋山信友に攻撃されます。
女城主は織田信長に援軍を求めます。
しかしこの頃、足利義昭の呼びかけにより浅井・朝倉・武田・本願寺らが信長討伐を計画していて、信長は大変苦しい時期を迎えている最中でした。 7月には再挙兵した足利義昭と槇島城で戦い、8月には朝倉義景を攻撃して破った後、浅井久政・長政父子を攻撃して破ったりしており、とても岩村城まで駆けつけれるような状況ではありませんでした。

 

そんな絶望的な状況の中、岩村城を包囲した秋山信友は何と敵将である女城主に結婚を申し込んだのです。
女城主は悩んだ末、城兵たちの命を守るため養子の織田勝長を跡継ぎにするという約束のもと結婚を受け入れ開城します。(しかしその後、養子の勝長は人質として甲斐に送られてしまったのですが。)

もちろん信長はこれに激怒したとのことですが、叔母が幼い勝信を抱えて一人籠城を続けていたのに助けに行けなかった自分のふがいなさは考えなかったのでしょうか・・・

 

それから約2年後となる1575年(天正3年)11月、ようやく余力が出てきた信長は、長男織田信忠(のぶただ)を総大将とする大軍を派遣して岩村城奪還作戦を行いました。

5カ月にわたる攻城戦の末、ついに岩村城側を降伏させました。 降伏の条件は秋山信友らを助命するというものでしたが、信長はいつものように約束を破り秋山信友と女城主らを処刑しました。

 

人々は城兵たちの命を助けるために「さかさ磔」にされ処刑された女城主を悼み、その名のついたお酒を造っているのです。

岐阜県恵那市岩村町にある岩村醸造は、1787年(江戸時代の天明7年)創業。
大正10年、岩村町で2番目となる

株式法人設立と同時にお酒の他に味噌、醤油も造りはじめました。
社名が「酒造」ではなく「醸造」となっているのは、そのためです。
その後、味噌・醤油の製造は止め酒造業のみに専念し、現在に至ります。